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 グローバル・エクスペリエンス・スタディーツアー
   IEPF Global Experience Study Tour 2007 in Indonesia

    
 


はじめに

NGOインドネシア教育振興会は、2007年2月23日から3月4日までの10日間、富山市教育委員会、インドネシア科学技術評価応用庁セレポン研究所、ガルーダ・インドネシア航空、北日本新聞社からの後援、富山大学グローバルコミュニケーションネットワーク(i.n.g.)からの協力をいただき、インドネシア(バリ、ジョグジャカルタ、ジャカルタ)へのスタディ・ツアーを実施した。ツアーには、富山大学の学生12名が参加してくれた。

インドネシアにとって日本は最大の貿易相手国であるが、そのことは日本ではあまり知られていない。また、インドネシアは、多民族、多言語、多宗教からなる国家であり、貧富の差も激しく、その生活の実情は日本ではなかなか実感のわかないものである。このツアーは、そうしたインドネシアの国情を自分で実際に見聞すること、そして特にインドネシアの子どもたちへの教育支援の方法を探ること、さらにはインドネシアの3つの大学の学生と交流し、友好関係を築き、率直な意見交換を行うことを趣旨として企画された。

参加学生たちは、数ヶ月間にわたって毎週のようにミーティングを重ね、現地での活動の計画を自分たちで考えた。現地の小学校での交流には、難しい言語コミュニケーションを必要としない「折り紙」を取り入れ、また大学での交流には富山の伝統文化である「おわら」の踊りを取り入れるなど、日本の文化を相手側に伝えることにも意を用いた。学生たちは、「おわら」の練習を何度も繰り返し、現地での学生との交流で披露したのみならず、ジャカルタ滞在時のホテルでも、プール横の広場で一般市民に披露するなど、何事においても非常に積極的、主体的であった。このツアーに応募してくれただけでなく、ツアーの中味を自分たちで考え、ツアーを自分たちで創ってくれた学生たちに、心より感謝したい。

ツアーでは、小学校や大学での交流、日本文化の紹介のほか、現地の教育NGOの活動を学んだり、現地の子どもたちへの教育支援の一環として、日本から中古のパソコンを自らの手で運んだり、ユネスコ世界遺産を訪問し学習したりと、得難い経験を得ることができたようである。また、移動中に目にする超近代的な高層ビルや、そのすぐそばで物乞いをするストリート・チルドレンの姿などにも、学生たちは言葉にならない大きな印象を受けていたようである。真剣な学び以外にも、自由時間にはバリ島のスパを体験したり、海で遊んだり、ジャカルタのモールで買い物をしたりなど、「あそび」の部分でも十分にインドネシアを満喫していた様子であった。

ツアー中、すべてが順調に運んだわけではなく、日本と正反対の気候のために体調を崩したり、訪問先との調整の手違いで急遽予定が変更になったこともあったが、そうしたことも含めて、今回のツアーが参加者にとっては大きな財産となったことを願うものである。また、今回のツアーで築いた現地の学生たちとの友好関係を今後も温め、ツアーで得た経験を日本の若者にも広めてもらうことで、日本とインドネシアの平和的な関係が将来においてさらに広がっていくことを祈念するものである。

 最後に、ツアーを支援していただいた富山市教育委員会、インドネシア科学技術評価応用庁セレポン研究所、ガルーダ・インドネシア航空、北日本新聞社に、深甚なる感謝を申し上げたい。


2007年3月   
                        インドネシア教育振興会理事 野平慎二








 ○日程報告:インドネシア教育振興会 窪木靖信



  4回 IEPFグローバル・エクスペリエンス・スタディー・ツアー
        
2007 in インドネシア

  IEPF  Global Experience Study Tour 2007 in Indonesia 
          2007年223日(金)〜34日(日



主催:インドネシア教育振興会
後援:富山市教育委員会・BPPTインドネシア技術評価応用庁セレポン研究所・ガルーダインドネシア航空
   北日本新聞社
協力:富山大学i.n.g. ( 富山大学グローバルコミュニケーションネットワーク )


■ ツアー報告 ■□□□
 第4回目であるこのツアーでは「インドネシアで様々な交流体験を通し国際ボランティア・教育開発を考え実践・行動ができるような人材を目指す」こと、また海外渡航未経験者に考慮し「実際に現地へ行き現地の人々との交流からできることを考え実践しよう」をサブタイトルにスタディーツアーが始まりました。


<1日目> 2月23日 ■□□インドネシアへ出発
関西国際空港からガルーダインドネシア航空GA883便でインドネシア・デンパサール国際空港へ飛び立った。
機内食が1回あり約6時間後に到着しバスで宿泊ホテルへ向いました。
当初宿泊先はゲストハウスを予定していたが、参加者の大半が海外渡航初めてであった為急遽、長期間の体調を考慮しホテルに変更しました。

         

 ホテルにチェックイン後、バスでインドネシア料理店へ向った。現地で初めての料理は食べやすいように
アヤム・バカール(焼き鶏)とベベック・バカール(焼きアヒル)そして緑の野菜の炒めものと白いご飯でした。
  この料理店の特徴は骨まで食べられるほど軟らかく、とても美味しいことです。

さあ!今日から毎日、インドネシアでの食事が始まります。
 味噌汁や日本米とは、しばらくお別れです。

     

 夕食後、インドネシアで唯一のCVSで当面の水など購入しホテルへ戻りました。






 <2日目> 2月24日 ■□□現地小学校訪問

 ホテルで朝食をとりながらインドネシア教育振興会・バリ支部(IEPFバリ)代表コマン氏よりバリ州の概要について説明を受けました。その後もバスで約2時間かけてジュンブラナ県ヌガラへ向った。バスの車内でもコマン氏からバリの初等教育の現状について説明を受けました。

     
 グンブリ村(DUSUN SERON DESA GUMBRIH)に到着し、すぐさま訪問校である国立グンブリ第2小学校(SDNo.2 GUMBRIH:グンブリ小学校)へ向いました。

 グンブリ小学校は、主要道路から5Kmほど山道を登った所にあり付近には棚田がある。その棚田に水を引く為の小さな小川を挟み小高い丘にその小学校があります。
 参加者は、坂道(崖のような)を登り終えると子ども達がバリヒンズー教の合掌と「オムスワスティ・アストゥ」とバリ式の挨拶のアーチをくぐり抜け校庭にたどり着きました。子ども達の歓迎に参加者たちは感動しました。
 
     


 小学校では、富山市立速星小学校6年1組の児童らが制作した「折り紙の方法」や「みんなの似顔絵」そして手製のお手玉を使いながら交流事業をしました。参加者は言葉の壁を乗り越える為に試行錯誤しながらも笑顔で交流しました。

     

     

 次に当会が現地で運営している農林畜産銀行事業(マイクロファイナンス事業)である果実園へ移動し運営の説明を聞きました。

 現地では小作農が主流である為、貧困で現金収入が多くない。そこで、村人達と「果実園の運営を協働で行う」簡単なシステムで、毎日の手入れや収穫を村人が行い収穫し売れた果実の利益を折半しています。NGO側への利益は教育事業の原資になっています。


     

 運営の難点は果実園が塀などで囲われていない為に不届き者による果実の盗難があることです。参加者は実際に果実園に成っている採れたてのマンゴスチンやランブータン、椰子の実を取り味わいその後、IEPFバリ代表の実家へ移動しました。

 そこでは、家畜として飼っている豚を絞めることから一連の流れで体験し食べ物としての生き様など参加者は考えさせられました。

     

     


○GUMBRIH村の概要

・903世帯 住民 約4515名
・村人の職業 農業 平均収入 月約5・6000円程度
・国立小学校1976年創設 全校生徒約100名教員数9名
・村営幼稚園 小学校に隣接
 村人の多くは農業を営んでいるが小作農が多い。住居には家畜として豚や牛そして鶏などが飼われています。



 本日最後の訪問予定地であるタナロット寺院へ向いました。
満潮時には海を挟んで孤立する場所にある寺院であり、それを守る為に日本ODAによるバリ海岸保全事業を日本企業が擬岩工法で岩山自体を補強した事業場所の確認とサンセットを体験しました。
この寺院は海の守護神を祭る寺院として地元の人々の信仰を仰いでいます。干潮時には寺院に近づくことができるが、異教徒は寺院に踏み入れる事は原則できません。
毎日多くの観光客が夕方のサンセットを楽しみに訪れる最高の観光スポットの一つでもあります。


     



<3日目> 2月25日 ■□□バリ島探索

 朝一番に「バロンダンス」を鑑賞しました。この伝統芸能は、バリヒンズー教のもつ生と死、善と悪といった、相対する概念を理解するのに一番分かり易い。善の象徴である聖獣バロンと悪の象徴である魔女ランダの闘いは最後まで決着をみないで芸能は幕を閉じました。もともと寺院で奉納されているものを観光用にアレンジされた芸能です。バロンダンスが終わるとヌサドゥアへ移動しました 。 

 ヌサドゥア(Nusa Dua)とは2つの島(実際には2つの岬)という意味合いでスハルト元大統領の指揮のもと開発された高級リゾート地であり約350ヘクタールの広大な土地に5つ星クラスの国際ホテルが立ち並び約30キロメートルの白浜ではマリンスポーツが盛んです。

     

 そこで、観光開発を考える上でも実体験が必要である考えからマリンスポーツを体験しました。
パラセーリングでは注意・方法を聞いた後、天高くアリのように小さく見えるまで遠く飛び立ってゆきました。フライ・フィッシュはゴムボート状の凧のようなものに乗り込みスピードボートによって引かれるのと風の関係でボートが宙に浮く、みているだけでも興奮するスポーツです。
 
 次は体験ダイビングをしました。ウエットスーツに着替えVTRを用いた注意事項やダイブ用の手話等の確認をした後船で沖へ出てゆきました。1・2時間した頃に満足した顔の体験者が戻ってきました。着替えを終え少し遅い昼食に向いました。昼食はKFC(ケンタッキーフライドチキン)でとりました。日本と同じように白色のカーネルおじさんが店頭に立っており店内の様子はこれといって違和感がなかった。しかし、店内では手洗いしている人々が多いのに気づく。日本ではパンやパイみたいなものがチキンのサイドにあるが、インドネシアでは違っていた!「ご飯」がパンやパイの替わりになっていました。

 今日から宿泊地は政府指導の元、開発されたヌサドゥアの5つ星ホテルで観光も重視したい参加者に考慮したプログラムです。

     

 ヌサドゥアの割門では24時間体制で警備され車を1台1台車体の裏までビデオカメラでチェックした後、ホテルへ向う。昨日までのローカル的な雰囲気の街並や庶民の姿は全く見えません。綺麗に整備され規則正しく並ぶ椰子の木々。これぞ南国の高級リゾートと思わせました。

 ホテルの入口門から正面ロビーまでも長い距離です。到着と同時にドラの音、そして壮大なロビー。そこでかすかに聞えるバリのバンブー音楽(竹の楽器)を聞きながらウエルカムドリンクもいただきながら、レセプション担当者からのホテルの説明を聞きました。客室総数は530室を超えるという大型リゾートホテルでした。
早速、部屋に案内され準備し今日の最終プログラム、ウルワトゥ寺院とケチャックダンス訪問見学に向いました。

     


○ウルワトゥの概要

 ウルワトゥとは「岬」という意味で、バドゥン半島西端にある。その名が示すように、インド洋の荒波が打ち寄せる約70mもの絶壁の地のことです。岬の絶壁の上に建つのがウルワトゥ寺院で「ルワール・ウルワトゥ寺院」と「ダラム・ジュリット寺院」の2つの隣り合った寺院を総称してこのように呼ばれています。古刹として知られるのがルワール・ウルワトゥ寺院。
 10世紀ごろ高僧エンプ・クトゥランによって建立されたものといわれ、16世紀、高僧ニラルタがこの寺院を訪れ、パドマサナ(バリの最高神サンヒャン・ウディを祀る祠で寺院内境内の3層メル)を増築したといわれています。 そのため、現在バリ六大寺院のひとつとして多くの参拝者を集めています。また寺院は珊瑚性石灰岩で造られており、チャンディ・プンタルやチャンディ・クルンにはガネーシャ神やカレ(魔神)の顔、不死鳥など見事な石彫りが見られます。一方、ダラム・ジュリット寺院は、ブラフマ神とビシュヌ神を祀ったものであるが、二つの祠の間奥にはニラルタを祀る祠も創られています。

 断崖絶壁に建つ歴史ある寺院を見学しながら併設された野外劇場へ向いました。絶壁の淵に通路が造られたそこを通りました。その周りには神の遣いであるサルがたくさんいました。既に会場にはたくさんの観光客が席を陣取っていました。私たちも席に座りインド洋に沈む夕日を楽しみながら開演を待っていました。


 バリの芸能は奉納されてきたものが多いが、このケチャックダンスは観光向けにドイツ人芸術家とバリ人舞踏家とで共同開発された舞踏劇でありサンヤンとよばれる伝統的な舞踏を参考にして生まれたともいわれ、同様のものは世界に他に類を見ないとされています。上半身裸で腰布を巻いた数十人から百人ほどの村の男衆が幾重に重なった円陣をつくりチャッチャッチャッと猿の鳴き声のような声で音を刻んで行く。実はプン・プン・プンとリズムを保つ者、メロディーを歌う者の他に4つのパートにわかれた鳴き声が混ざり合わさり歯切れの良いビートを刻んでいるのです。
 
     

○ケチャックダンスの簡単ストーリー

 王子ラーマと姫シータが森で金色の鹿を見つける。
シータはラーマに「金色の鹿よ!珍しい〜捕まえて〜!」と頼むので、優しいラーマ王子は弓を持って鹿を追いかけて行く。しかし、この金色の鹿はラーマ王子からシータ姫を奪おうとする、人相の悪いラワナ王の罠です。
 ラーマ王子が鹿を追いかけて行きシータ姫から離れた隙に、ラワナ王はシータ姫を捕まえて自分の城に無理矢理連れて帰り監禁する。

 シータは一人城で泣いている。

 するとそこにラーマ王子の使者白い猿ハヌマンが、ラーマ王子からの言付けであるチンチン(指輪)を持ってやって来る。
 それで気をとり戻したシータ姫は、自分の髪飾りをこのハヌマンに託し、ラーマ王子に自分の無事を知らせてくれと頼む。

 ハヌマンは城を出る際に、ラワナ王の臣下に見つかり捕まり火あぶりの刑に処せられるが、なんとか逃げ出しシータ姫の無事をラーマ王子に知らせる。最後はシータ姫を救おうと城にやってきたラーマ王子とラワナ王の戦いになり、ラーマ王子が戦いに勝ちシータ姫を助け出す物語であります。


     

 参加者は、本物のケチャを実体験しその壮大さと火が飛び散るパフォーマンスに圧倒していたようです。最後に出演者達と記念撮影をしてから夕食に向いました。道中でもチャッチャッチャッと耳鳴りのように頭から離れなかったのは言うまでもありません。
今日の夕食はお昼にマリンスポーツを体験したヌサドゥアの白い砂浜のビーチの貸切でシーフード料理をいただきました。昼間のビーチとは違い、幻想的な空間に変化していました。やはりここは神々の住む島なのか。



<4日目> 2月26日 ■□□民族舞踊体験

 高級リゾートホテルの朝食をいただいた後、ウダヤナ大学へ向いました。ウダヤナ大学はバリ州の州都デンパサールにある国立大学です。ホテルから約1時間30分ほどの場所にあり、そこへ向う途中の交差点にはたくさんの物売り・新聞売りがいて日本人だと分かると急いで日本語・中国語などの漢字類表記の新聞を車窓に押し付けてきました。

     

 大学に到着。日本語学科の先生にご挨拶しキャンパスを簡単に見学し15分ほどで移動の予定が教室に通されました。予定外の対応に苦慮したが、これは幸いとして大学生用のアンケートをとることにしました。
 最初に自己紹介してすぐさまアンケートを取りながら交流を深めました。日本語学科の学生ですが日本語でのコミュニケーションが上手く行かない状況でしたが、先方の大学生らは日本人学生との交流が嬉しくて写真を撮るなどしながら楽しく交流し、あっという間に1時間を越してしまいました。

     

 急いでバリの芸能の村ウブドへ向いました。途中、銀細工の村で知られるチェルクに寄りウブドに到着したのはお昼をすぎていた。お腹が空いては次のプログラムに差支えるとして、有名なバビ・グリンをいただいた。先日参加者が作って食べたバビ・グリンとは天と地ほど違うものと感じたに違いない。と、言うのもバビ(豚)の種類が違うとの事。料理店で使う豚はオーストラリア原産の豚で肉が豊富にあるとのことであります。先日食べたコラーゲンたっぷりの物と全然ちがった訳が理解できました。

 昼食後、バリ民族音楽の象徴であるガムラン音楽を体験しました。ウブドのある村でガムラン音楽団を主宰しているMr.マデ宅の音楽工房で体験が始まりました。(本来、女性のガムラン楽器使用は禁止されており、ここでは特別な許可のもと体験した)バリでは、バンジャールという村組織や宗教観が強く結び付いており勝手な行動は許されません。

     

 参加者は、恐る恐るガムランに触れてみました。興味あるものに触れ始め、結局早い者順番で体験するガムランが決まって行きました。一人一人が音符を刻んで行く。どうしても間違う者、一回の教えで享受できる者様々であったが30分ほどで音が合ってきました。指導者が弟子のガムランの反対側から同じ様に手さばき教授する姿は神技そのものに映っていました。一時間あまりで音が合い心地良いガムランが鳴り響いていました。その頃、マデの子どもらは隣の母屋で粘土細工を作っていました。まだ小学生というのに手先の器用な子ども達です。さすが芸術の村ウブドです。

     

 夕方ウブド市場へ各自お土産などの購入に挑戦!この市場には定価や価格表示がありません。全て売り手と買い手とのやり取りで価格が決まります。日本で事前にVTRで見たように価格交渉はできるでしょうか?参加者はアロマオイルセットやサンダルなどを買い求めましたが購入価格がまちまちでした。アロマオイルでいえば1セットRp25000で購入したものもいればRp10000で購入したものもいました。伊藤君はお面の購入に奮闘!何回も交渉を重ねました。あまりの安さで店主が紛糾。結局周りの店主らの仲裁のもと最低価格で取引しました。

 本日の夕食はウブド市場前のカフェです。それが幸いしてケバヤをきた村人達のお祭りに遭遇しました。何が起こるかわからないインドネシア。見たかった葬式やこうしてお祭りの行列を身近に見ることができました。きっと日頃の行いの良い主宰者に神が見方したのだろう。夕食後、バリ伝統芸能の代表的舞踊をウブド王宮のステージで観劇することになりまし。王宮の中の幻想的な野外ステージを見るだけで興奮しました。やがてガムランの音楽が始まり舞踊が始まりました。先ほど自分達がガムランを演奏しただけにガムランの奏でる音域にウットリしました。

     




<5日目> 2月27日 ■□□ジョグジャカルタへ

 朝食後、各自チェックアウトして高級リゾートホテルとお別れです。
 一路バスで私立肢体不自由者の寄宿舎施設:YPACへ向いました。
 バリの時間はゆったりと流れているはずなのに私たちの周りの時間は瞬く間に過ぎてゆくのが分かります。時間が足りないのです。ホテルでの施設プールでさえ使いこなされなかった。
本当にホテルでリラックスして寝て美味しい朝食をいただくだけの空間でした。しかし、この空間があったからこそ目まぐるしい時間の流れを癒し、バリの時間の流れと私たちの時間との調和させてくれたのだと思いました。
そう思っている間にYPACに到着しました。     

 子どもらは2階の教室で授業を受けているとの事であったが、すぐさま2階から子どもらが降りてきました。
 階段を這うようにお尻をひきずりながら下りてきたのです。日本に住んでいる私には考えられないとても痛々しい光景です。
 改築していた建物の2階が教室であるとは考えもしなかった。2階に職員室など健常者の部屋を移すものだと思っていた私は面食らったのです。
2階に教室を設置するならばスロープでアクセスを可能にするなど方法があるだろうが、ここはインドネシアなのです。障害者も健常者の区別はなかった。

     

 区別がないことは良いことと考えられるが、ここは肢体不自由児の施設です。
 健常者にも辛く感じるインドネシアの階段・段差がある、この上ない不便な施設と思います。しかし、ここで学ぶ子どもらの不満はないのです。学ぶ機会があるだけで幸せなのです。

 日本の障害児教育施設との比較をしている私の視点が、この地で生活をしている子ども達の現状での有難みを越えたおこがましい一方的な思いかも知れない。個々の施設に固持するより、ももっと広義にこの地での障害児の置かれた環境を理解し、多くの家庭で家の中に留めさせているとされる障害児の環境改善に注目することが大切なのかも知れない。

 東京都立町田養護学校からの依頼で生徒らが制作した「絵」と鉛筆を届けました。
2階から下りてきた子どもらに早速その旨を伝えると同時に皆さんも「絵」などを描いて欲しいと依頼してから一人ずつ手渡しました。面白いといった子もいれば嬉しそうな顔だけの子もいました。それに続いて同校から別送で届いた鉛筆も手渡しました。

     

 時間が押し迫る中であるが子どもらと折り紙交流も行いました。子どもらのハンディに合わせ参加者が主体的に判断し折り紙を一緒に折りました。参加者は飛行機、鶴を一緒に折った。中には子どもらに教えてもらったものもいたし、中々コミュニケーションがうまく行かず一方的な折り紙教室的な参加者もいたが、あっという間に滞在予定時間がオーバーしました。楽しいことには時間が足りない。全員で再会への固い握手をして別れました。


○YPAC BALIの概要

・YAYASAN PEMBINAAN ANAK CACAT BALI
(インドネシア肢体不自由児協会・バリ支部)
・設立:1975年10月28日
・設立目的:1. 政府の障害児教育を支援する
2.障害児の福祉の向上のために努める
3.長年のYPACの目標は子どものリハビリテーションセンターとしての役割を持つこと(生活施設と学校としての設備を持つこと、組織運営の整理、運営体制作り、財源づくり)
 ・ビジョン:「人の能力は障害の有る無しで、測られるものではない。」その考えから、YPACバリは、障害者への積極的なサービス提供をすることを使命としています。また、障害児も障害を持たない子供と同じように権利と義務を持っており、その待遇も障害を持たない子供と同じでなければなりません。その為、サービス向上に努めて、優秀なマンパワーを投入してきました。
・財政:政府・個人等からの寄付
・利用者:53名 寄宿者15名

 (IEPF主宰者の知人、阿部尚子 執筆:バリで活動する
 NGO社会福祉団体リストより)

 23日に降り立ったデンパサール空港へ向いました。今日向うのは国内線ターミナルです。バスから荷物の受け取りと同時にポーターがやってきました。「ティダ・マウ」を言って自分達で荷物を運び国内線エックス線手荷物検査場を経てジョグジャカルタ行きカウンターへ移動しました。(とりあえず)グループ申請してあるのでブッキングオーバーで繰り残されることは無いようです。何が起きても不思議ではない国のことだから用意周到に越したことはないです。

     

 国内線空港税Rp25,000を払い搭乗口ロビーへ移動しました。またエックス線での手荷物検査を受けました。一人がエアゾールスプレー所持で没収されました。国際線でもパスしたのに国内線の網に引っかかったようです。そのエアゾールスプレーは多少大型だった為か検査官にとって特別な獲物に見えたのだろうか。一度捕まえた獲物は強力なイソギンチャクのように放すことは無いのです。今頃その獲物はどこかの市場の店頭に並んでいるのだろうか。
参加者は13時10分発飛行機の搭乗を待ちました。やがてアナウンスがあり搭乗口へ移動し通路を抜けると飛行場内を歩いて搭乗するタイプです。翼の下付近を歩いて搭乗し一路インドネシアの古都ジョグジャカルタへ向いました。

 ジョグジャカルタ到着、スケジュール表では13時20分着となっています。参加者の中には単純に10分間の飛行時間だと思った者もいましたが、バリ島との時差が1時間あるためです。瞬間的にタイムマシーンに乗った気分にさせられます。 
 ジョグジャカルタに着いた参加者一行は、チャーターしたバスで世界遺産に認定されているヒンズー教寺院プランバナンへ向いました。約30分の道のりです。
 プランバナンの駐車場にバスが到着するとすぐさま物売りの群れができました。参加者は、物売りの洗礼を受けながら受付へと向いました。なんと受付は外国人用と現地人用の2ヶ所あるのです。参加者一行はもちろん外国人用の受付へと向いました。

 外国人はUS$10、学生はUS$7です。英語や日本語のガイドは要らないかと、セールスがここでもありました。入場料を支払い公園内へ移動すると右側には、地元用の入り口があり数千ルピアで入場が可能です。
 このプランバナン寺院は古マタラム王国のバリトゥン王(在位898年〜910年)によって建設されたとされるヒンズー教寺院チャンディ・ロロ・ジョグラン(チャンディ・プランバナン)と呼ばれ、次の王ダクサ(在位910年〜919年)に完成し、1991年にユネスコの世界遺産に登録されている。残念なことに2005年5月27日に発生したジャワ島中部地震で被害を受け遺跡内苑には入ることができませんでした。


     

 次に訪れたのは、プランバナンの北西約1.5Kmにある
セウという仏教寺院で8世紀終わりから9世紀初めに建てられたとされる寺院です。参加者は汗だくになりながら壮大な寺院を見学しました。

 夕方になり一行はホテルへ向いました。チェックイン後、夕食を近くのショッピング・モールで取りマリオボロ通りへバスで移動し市場見学組とラーマヤナ伝統芸能鑑賞組みと別れました。
2組それぞれ時間まで観察し待ち合わせ場所で落合い、パサールマラーム(夜市場)へ向いました。そこで、ジャカルタの大学訪問時に使用するバテックのシャツを買いました。

     

     

<6日目> 2月28日 ■□□世界遺産訪問

 今日の予定はボロブドゥールとガジャマダ大学訪問です。
まず、最初にガジャマダ大学文化研究学部日本語日本文学科へ訪問した。
連絡先が分からずアポなしの訪問になりましたが、担当の教員に快く対応していただきました。
 参加者はキャンパスを散策し現地学生らと交流しました。その後、バスでボロブドゥール遺跡へと向いました。
貸切バスでの移動ですから、寝たり次の訪問地への勉強会をしたり自由に使えるのでとても便利です。
ボロブドゥール遺跡に着き入場券を買いました。一般$11学生が$8です。学生といってもユネスコが発行する国際学生証の提示が必要でした。入場するとまた物売りの攻撃から始まりましたが、参加者は慣れた様子でうまく交わしました。

     


○ガジャマダ大学の概要

 1949年に創立されたインドネシアで最も古い国立大学で、18学部を有する総合大学です。
 学生数約4万人、教員数約2千人です。大学院、各種研究施設を持ち、中部ジャワ地域の高等教育の中心的役割を担っています。
 2002年に独立行政法人化され、教育の質の向上は最も重要な課題として取り組まれている大学です。またガジャマダ大学文化研究学部日本語日本文学科は、1989年に中部ジャワ地域に初めて開設されたS1(4年制)コースがあります。1999年にはD3(3年制)コースも開設され今なお、その後開設された周辺大学の日本語学科の中心的立場にあります。
 この大学には中部ジャワ唯一の学科付属の日本語図書室があり約6,500冊の書籍、160本のビデオテープやDVD、日本語の新聞などがあり学内のみならず学外の学生にも広く利用されておりNHKテレビも視聴することも可能とのことです。



○ ボロブドゥールの概要

 大乗仏教を奉じていたシャイレーンドラ朝ダルマトゥンガ王の治世の780年頃から建造され792年頃一応の完成をみたが、サマラトゥンガ王(位812年〜832年)のときに増築。工法は自然の丘の上に盛り土し接着剤を使わず切った安山岩を組み立てて作ったもので、完成には約100年かかったといわれています。メラピ山の噴火(1006年)により1814年ジャワ副総督英国人ラッフルズによって発見されるまで密林の中で火山灰に埋もれていた謎の遺跡です。
 修復はオランダ統治時代の1970年代に2回。ユネスコにより1973年〜1983年にかけて行われた。遺跡の高さは約42m。9つの階から成り立っていて一段ずつ意味があり、1階は煩悩の世界で因果応報を説いており、悪いことをすると醜い顔になるけれど、良いことをすると来世は幸せになるというレリーフがあります。2〜6階までは解脱の世界を示しており、有名な釈迦の話は2階です。レリーフの数は全部で1460面あるとされています。


     


ジョグジャカルタから首都ジャカルタへ

 夕方、移動の為に空港へ向う。ジャカルタ行き飛行機のチェックインのあと簡単な夕食とIEPFバリ代表のコマン氏と別れました。コマン氏はジャワ島の東側から西ヌサ・トゥンガラ州、スラウェシ島南側付近までとIEPFインドネシアの収益事業を担当しています。多くのインドネシアの人は、自分が生まれた島から他の島へはあまり行きません。行きたがらない人が多いといわれています。

 ジョグジャカルタ発GA215 18:20発でジャカルタへ、到着は19:20分を過ぎた頃です。ジャカルタの空港には、インドネシア教育振興会・副代表でインドネシア代表であり富山大学工学部博士課程卒業のDr.ハシム氏(ハシム氏)と現地ボランティア大学生が迎えに来ていました。

     

     



<7日目> 3月1日 ■□□田舎の小学校訪問

 美味しい朝食の後、ジャカルタ郊外にあるセレポン市に向う。
 慣れない土地に来て安眠や美味しい朝食をいただけることにつくづく感謝する。安いゲストハウスや民宿も良いが長期間の滞在になればなおさらそう感じます。
 移動中のバス車内においてハシム氏から本日のスケジュールと概要の説明を受けました。
今日のプログラムにはIEPFインドネシアの現地大学生ボランティアも参加した合同プログラムです。
 インドネシアの大学生の中にもボランティア意識を持っている学生が存在するが活動の場が限定されるといいます。
 高速道路を利用し約1時間でセレポン市に入りそこから40分ほど田舎に行ったところが今回の目的地です。
 最初に訪れたのは、国立テュナス・ムダ小学校(SDN Tunas Mugda)です。 校舎の外観は綺麗そうであったが、いざ教室へ入ると劣悪な環境でした。
 木製の2人掛けのベンチ椅子と机を使用、黒板は古く白っぽくなっておりチョークでの文字が読み取れないほどです。参加者は挨拶のあとIEPFインドネシアからスポーツ用品などの寄贈のあと日本で計画した絵本の朗読、アンケート調査そして即興で考えたハンドランゲージを用いたゲームなどで交流をしました。

     

     

     



次に訪れたのは、アル・カエリヤー・イスラム小学校
(MI AL Khaeriyah)です。

 初めての外国人訪問で子ども達の驚いた様子が伺えまたました。参加者はジルバブをした子ども達を見て一瞬異様さに驚き動揺したようでしたが、現地ボランティアのサポートもあり次第に打ち解けてゆきました。

     

     

     




 インドネシア技術評価応用庁セレポン研究所(BPPT)

 BPPTに表敬訪問しました。
 研究所では、普段見学ができない実験装置の内部まで説明案内していただきました。また昼食と参加者と同年代(20才前後)のカンポン(田舎)の若者とディスカッションを通した交流も研究所のミーティングルームをお借りして実施しました。

 参加者と同世代の若者との交流では、外国から来た参加者を迎えることに恥ずかしくないように精一杯お洒落したイスラム教徒の女性たちでした。
 指には自然な植物で整えたマニキュアだと言っていました。
 自然な植物のマニキュアと聞けば聞こえは良いが、実際に彼女らの手は荒れていてマニキュアも良い状態ではありませんでした。後になって参加者から日本では100円からでもマニキュアが売っている。このようなことがわかっていればプレゼントしたかったと、言っていました。

     

     

     

 BPPTからホテルへ帰る途中に日本企業が複合開発・運営しているショッピング・モール「スナヤン」があり立寄ったあとホテルへ帰りました。



○ゼネコン鹿島 スナヤン・スクエア開発プロジェクト概要

・スナヤン・スクエア開発は、インドネシアの首都ジャカルタの中心部に、ショッピングセンター、オフィスビル、アパート、ホテルを含む複合コンプレックスを開発・運営するプロジェクトです。

□プロジェクトの特徴は、次の2点
(1) BOT(Build・Operate・Transfer)形態による開発援助プロジェクト
・政府機関が政府所有の土地(20ヘクタール)を長期借地(40年)契約により民間企業に開発委託をし、受託者は期間内に施設を建設し、完成後の運営により投資を回収した後(40年後)に、政府に無償返還するという、民間の開発援助プロジェクトです。

(2)都市再開発事業
・スナヤン地区には1962年アジア大会開催時のスポーツ施設が建てられていたが、その老朽化に伴い、都市機能の充実と国有地の有効利用の観点から、一部を商業施設化する都市再開発計画が生まれ、入札の結果鹿島の提案が採用された経緯があります。

   


<8日目> 3月2日 ■□□現地大学訪問

 自由研究とビナ・ヌサンタラ大学訪問、市内見学
 午前中は昨日までのまとめと、今日訪問する大学での模擬授業の練習準備をしました。
 先方の大学での準備時間を短縮する為に参加者はホテルで浴衣などに着替えて向う事にしました。
 一行は、ホテルからタクシーに分乗し大学に向いました。しかし2台のタクシーが訪問予定地に来ない。どうやら違うキャンパスに向ったようです。
 ホテルから出発時に住所を書いた紙を手渡し口頭で説明し「わかった」の返事をしていてもこのような状態でした。
インドネシア人の多くは知らないことを恥だとして、言うならば知ったかぶりをするのです。今となれば、この表現が実証された形になりました。

     


 大学では、参加者とIEPF理事とは別のプログラムでの訪問交流になりました。
 参加者は、先方の大学生らが待っている教室で模擬授業になったが、教室への案内もなければ着替えの教室も用意されていない状況でした。さすがインドネシア、準備がされていないのです。
 現地大学生たちは「午前中に私たちの訪問を聞いてやってきた」とのこと。道理で案内もなければ受付もないことがわかりました。場所を間違えたタクシーを待っていても時間がなくなるとの考えから、到着している参加者で模擬授業を始めました。そうこうしている間に遅れた参加者が到着し継続しました。授業が盛り上がってきた頃に先方の教師から模擬授業のストップがかかりました。
本当に何が起こるかわからない、日本では考え思いもつかないことが多く発生します。
そんな苦難も即時解決し、参加者と現地学生の同意から模擬授業が再開されました。

 気分の悪いことを体験したが、このようなことが政府間交渉でも多く発生しています。
つい数ヶ月前には日本ODA事業契約が当日にキャンセルされたりする事件が問題になっていたり、逆に2月の現地新聞には「日本ODA説明会で記者に現金」と逆に不明朗な慣行や汚職を助長しているように書立てられていました。
また、FoE Japan木山央子のレポートによると、「今や腐敗が、貧しい人々から富を盗み取ってより豊かな人々に移すシステムであることは広く知られるようになりました。」とし、 インドネシアの事例から・・・利権につながらない人々が腐敗によって受ける被害は、こうした直接的被害にとどまりません。現在インドネシアが直面している最大の問題は1400億ドルにのぼる対外債務ですが、公共料金の値上げ、雇用、健康、教育へのしわ寄せによって、貧しい人々がその負担を負っています。(さらに国際的な犯罪組織が貧困者を移民・人身売買ビジネスの犠牲にしようと待ち構えています。)汚職によって盗まれた多額の借入れ金は、インドネシアの人々に何ら将来の利益をもたらさない債務とし、問われる日本の責任としてスハルト政権下でインドネシアに投入された日本の開発援助は3.5兆円に上ります。開発資金の3割近くが「大規模かつシステマチック」に盗まれていたという推定を信じるとすると、このうち相当額が不良債権化しているとの疑いを捨てきれません。
 この援助金は郵便貯金や国民年金を原資としていますので、これは日本の市民にとっても少なからぬリスクを意味します。しかしこれまでの対応を見る限り、日本政府は公的資金管理のまずさに責任を感じるどころか、重大問題とさえ認識していないのではないかと思わざるを得ません。・・・

 私たちはまず、経済成長による腐敗の正当化は、政治倫理的にも、事実としてももはや有効でないことを認める必要があります。腐敗を防ぐ努力を行わないことは、貧困者を痛めつける犯罪に荷担することであり、日本国民の信頼に対する裏切りです。この機会に、国際機関や援助対象国、民間セクター、市民社会の参加のもとで、根本的な取り組みを始める必要があると指摘されています。
http://www.foejapan.org/old/aid/report/ti-sympo04112001.htm

 参加者はインドネシアでショッキングな現実を目の当りにしました。
 本当にいろいろなことが次から次へと起こりました。
 参加者はキャンパス前でタクシーを拾いながら数台に分けてホテルへと戻りました。
 その後、IEPFインドネシアのボランティア大学生らに越中おわらを披露したあと一緒に踊りました。
 夕食の為ジャカルタで一番人気のあるショッピング・モールにボランティア大学生に案内してもらいました。モールへは各グループに別れタクシーに分乗し移動・行動しました。モールでは、本屋へ食事にと思い思いの行動を現地ボランティア学生と行いました。

     


<9日目> 3月3日 ■□□現地最終日

 ジャカルタ歴史博物館(Museum Fatahillah)

 オランダ植民地時代の1710年に市庁舎として建設された建物です。
 1999年リノベーションされています。博物館の別名"Fatahillah"は16世紀のジャワ ムスリムの王様。
 市庁舎の床下は犯罪者を収容する"牢獄"になっていました。狭くて暗い。
 足枷に使われたというボーリング球状の錆びた鉄玉もあり中世の雰囲気を漂わせていました。
ジャカルタ中心部にあるサリナ・デパートで昼食とジャカルタで最後の現地探索をしました。その後、渋滞のバス車中から市民生活をみながら宿泊先のホテルへと向いました。
 ホテルに到着し帰国の準備をしてロビーに集りました。
 ロビーでは、このツアー主催者からの挨拶に続いてIEPFインドネシア代表ハシム氏から参加者一人一人に参加終了証が授与されました。
 長いようであっという間の9日間の交流体験が終了した。バリ島での文化や観光そして小学校、大学での交流体験から始まり、障害児との交流、インドネシアの古都ジョグジャカルタへ移動し世界遺産とガジャマダ大学への訪問、そして首都ジャカルタへ移動。インドネシア技術評価応用庁研究所への表敬訪問。カンポンと呼ばれる田舎の小学生や同世代の若者との交流やイスラム教徒のジルバブの試着しモスク訪問し礼拝体験しました。異境の地で私たちをサポートしてくれたIFPFインドネシアの現地大学生ボランティアたちには本当にお世話になりました。
 ジャカルタの大学での模擬授業、日本舞踊での交流、ジャカルタ歴史博物館へ訪問し現地ツアーの幕を閉じました。

     

     

     

            

     

     

                終わり!!